物事は何でも捉え方次第
テキサスの学校が始まって1週間がたちました。毎年沢山の子どもたちを教えるようになって、同じように教えても捉え方が十人十色で面白いです。素直に聞く子もいれば、聞く耳全然ない子がいたり、言い訳が多かったり、たまに反発してくる子もいたり。変なディフェンスメカニズムを持ち合わせる子ども達をみていると、
ごちゃごちゃ言っとらんと騙されたと思ってやってみろ!
と言いたくなる自分を抑え、
ポジティブに、ああ自分もこんな時期あったよな。
青春の香り。
いい香り。
と思うようにしています。
今回は私の青春のいい香りについて書いてみようと思います。
私は自分で言うのも何ですが、聞き分けの良い生徒で、先生に言われたことも言われた通りにこなし、宿題も期限を守って全部提出してました。
打楽器も同じで、先輩に教わった通りに弾いてました。
中学の吹奏楽部で初めて打楽器を教わった時は、吹奏楽なのになぜかマーチングバンド用のぶっといバチで、マーチングバンド用のバチバチに叩く基礎練を習いました。そこに疑問を持つこともなく、言われるがままに練習しました。もちろん、コンサートスネアは全然上手くなりませんでした。
高校に行ったら、今度は高校流のテクニックに変えさせられました。
今度は何と、手首を鶴の頭の様にうねらせて、ムチをうつように!
みたいな分けわからん叩き方を習いました。毎日毎日練習台でばちこーんばちこーんとムチうち100回とか。
今思い返しても謎です(笑)
アメリカで初めに行った短大には打楽器の先生がいなくて、トロンボーンの先生に習いました。その時もマーチングバンドの教則本をもらって、自己流でバチバチやってました。
4年制の音大に編入した時、初めて本物の先生につきました。オーディションで先生に、スネアの技術は一からやり直しと言われました。
それから4年間みっちりオーケストラ用のスネア奏法を教えられました。いかに小さい音で正解に弾けるようになるか。コントロールするのではなくいかに自然な音を鳴らすか等、今までとは対極のアプローチでした。
今までやって来た事が全て無駄に感じました。もっと早く教わっていればこんなに回り道をしなくてすんだのにと思いました。でも今までは打楽器の先生に習ってなかったので仕方がないと思い、一から頑張ってやり直しました。その先生からは他の打楽器の基礎全般もみっちり叩き込まれました。
その後修士課程で大学院に行った時もそこの先生の叩き方を教わり、マレットも先生の持ってるマレットを買わされました。この先生には色んな動きを制限されました。なんだか堅苦しいロボットみたいな叩き方になりました。自分でもぎこちなくやりづらかったけど、頑張って練習しました。
そして博士課程で新しい先生についた時、
何でこんな変てこりんな叩き方してるの?と言われ、また叩き方を直されました。
その瞬間、プチっと何かがキレました。
何回変えればいいんですか!
初心者ならまだしももう私は博士課程のいい大人!
私は今までの打楽器人生を全部否定されたような気がしてお先真っ暗になりました。
そこからレッスンに行って何かを言われる度に人格否定されたように感じてしまい、毎回レッスンでボロ泣き。
でも先生には、「私教え方変える気ないから。上手くなりたくて来てるんでしょ」と言われました。
そんなこんなでモンモンとしていた時、打楽器のあるセミナーに参加しました。その先生が、なにかのくだりで
「引き出しは多い方がいい」と言いました。
その瞬間ハッとしました!
今までの私のやっていた事は無駄だったのではなく、引き出しを増やす作業だったんです。
料理で例えるなら、調味料の種類を増やしているようなもの。塩コショウで事足りても、醤油やソースがある方が味に幅が出るのです。
それなのに、塩味だけ!とか醤油味のみ!とか変なこだわりでがんじがらめになってました。塩ラーメンも醤油ラーメンもどっちもおいしいです。その土地柄や伝統によって違う味が生まれて、それはどれが良いとか悪いの問題ではないんです。
そう思い至った瞬間、毎日の学びが楽しくなりました。先生から学べるものはすべて学ぼうと思えるようになりました。
実際学校を卒業して色んなギグに呼ばれるようになって、引き出しが多い事がとても役にたちました。
無駄だと思った中学で習ったマーチングバンドの基礎練習も、今になってテキサスの高校や大学でドラムラインを教えるのに非常に役立ちました。
鶴のばちこーんもいつか役立つ日が来る!
といいですが。
というこで、反抗的な生徒には、まず自己肯定をしてあげるようにしています。
そしたら調子にのって話聞かないオチになったりするんですけどね (^_^;)